【9】強制移送と医療保護入院

入院の前日、すなわち強制移送の前日は、なんとも落ち着かない気分でした。

母は異様に鋭いところがあり、わたしの様子がおかしいと悟られる心配があったので、入院を画策しだした時期からなるべく接触しないようにはしていました。

マンションの高層階のため、暴れて抵抗してベランダから飛び降りるような心配もあり、その覚悟もしていました。

マンションの管理人にも、こういうことをするからよろしく頼む、とも言っておきました。

移送会社の車が出口近くまで来て待機することなど、許可を貰いました。

すべての準備を終えてもなお、心の準備が整った気がしませんでした。

決心も覚悟も固まらないうちにやらねばならない、という初めての経験でした。

当日の朝、一人の女性を含む四人の移送会社スタッフが来ました。わたしはリビングで覚悟を決めて座っていました。

女性スタッフが「検査のために来ていただかなくてはならない」と説得する様子がかすかに聞こえてきました。

母は「大変なことになったね」と言いつつ素直に従って、移送会社の車に大人しく乗りました。

病院に到着してからは、診察の順番が来るまで、車の中で待機しました。時間を予め伝えているにもかかわらず、通常の外来診察の窓口での対応でした。

このあたりも、なかなか段取り良くすすまないものです。東京でのスピーディなビジネスに慣れているわたしには、もどかしく感じました。

「移送会社の車で来ている。スタッフさんは早く次の現場に行かなくてはならず、長く待てない」と受付に強く言うと、順番を繰り上げてくれた…ような気もします。

結果、10分ほど待ったかと思います。

ようやく診察室に入って、診察が始まりました。

目を据わらせて、妄想話を延々と喋る母。

医師は黙って聞いていましたが、「入院していただかないといけない」と言いました。

「入院はおろか、治療の必要などない」と強弁する母としばらく押し問答が続き、「強制入院」という現実がわかったところで、はじめて母が暴れ始めました。わたしも2、3回拳で殴られました。

すぐに屈強な男性看護師が両腕をおさえ、「息子さんは外に行ってください!」と叫ぶように言いました。

その日は、母と会うことはありませんでした。すぐに閉鎖病棟の鍵付きの個室に入れられたようです。

待合に戻ると、移送会社の方が待っていて、「もう行きます。わたしたちはこれから新潟です」と言いました。

「これからが大変でしょうが、がんばってください」と言われました。

こういう職業の人たちがいなければ、本当にどうなったのだろう、と思って、心の底から感謝を伝えました。

移送会社の方々を見送ったあと、入院の手続きのときにわたしのほかに保証人がもう1人必要であることがわかりました。

疲れきっていましたが、叔母に電話して頼むと叔父に変わると言われ、叔父が出てきて「お姉さんが亡くなった時の遺産はいくら入ったのか」などと聞かれました。

その質問があまりにも意外で一瞬頭に血がのぼりましたが、「貯金はあるし、わたしが働いてきちんと払うのでそちらに迷惑をかけない。名前と住所だけ貸してくれればいい」と頼みました。

すべてを終えて、家に帰ると、どっと疲れが出て、放心状態のようになりました。

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