【10】医療保護入院に至る経緯の考察
ここでいったん入院に至る経緯について、心理的葛藤を含めて振り返りたいと思います。
わたしが「母は治療のために入院の必要がある」という認識を初めて持ったのは、発症してから12年近くが経ち、姉の死後に状態が悪化したタイミングでした。
複数の医師に相談して、「入院する必要がある」と言われてはじめて、医療保護入院という単語を知り、その必要性を認識しました。
今現在の経験、知識をもって過去を振り返ると、医療保護入院を検討するべきタイミングは、発症直後と発症後4年後…大学3年次にマンションの下を歩いている人にものを投げた時…の少なくとも2回あったと思います。
そのときの急性期の症状はかなり激しく、今思えばよく落ち着いたものだと思います。
しかし、そのときは、「本人が治療を拒絶して病院に連れていけない」という壁にぶつかったところで思考が止まってしまい、また姉や他の親族とも意見が一致しなかったので、具体的なアクションを起こすことができませんでした。
実際、本人の意志に反して強制的に執行する医療保護入院は、家族の同意のもとで行なうものですから、誰かが責任をもって決断しなくてはなりません。
不幸にもその2回について、未成年かつ学生という立場であったわたしと姉には、その決断と結果責任を担うだけの力がありませんでした。
同居していた姉が亡くなって、社会人になっていたわたしが一人で決断しなくてはならない立場になっても、実行に至るには多くの心理的葛藤がありました。
医療保護入院が母にとって本当に良いのか、とずいぶん思い悩んだのです。
当初、わたしが同居することによって状態が落ち着くのであれば、それで大丈夫じゃないかと思っていました。
しかし、病状は悪化の一途をたどり、自然に回復することが想像できない状態にまでなっていったと思います。
風呂に入らなくなった母はどんどん不潔になっていき、一日中部屋で寝たきりの状態になっていました。
洗面所の水を出しっぱなしにして溢れさせ、階下に水漏れを起こして保険で賠償する、といったことも起きました。
湯を沸かしても放置して空焚きしてしまう、といったことも何回か起きました。
統合失調症患者は、集中力が持続せず、思考があちこちに飛躍するので、一つのことを完遂するまでやりきれず、途中で放り出してしまうのです。
それでもまだ、強制的に閉じ込めるという選択が正しいのかどうか、踏ん切りがつきませんでした。
「俺さえ耐えられれば大丈夫なんじゃないか」という思いがずっとくすぶっていたのです。
ときには、鬼気迫る母の表情には何かが取り憑いているようにも見え、「病気ではなくて悪霊の仕業ではないか」と思ったこともあります。
「病院ではなくて祈祷師とか霊能者の仕事でないか?」と思ってかなり調べもしました。
それらの逡巡は、今にして思えば、一種の現実逃避であったと思います。
いくつも病院を回って「入院させるべき」という複数の医師の判断をもらったのは、迷いを断ち切って医療保護入院が正しい選択であるという確信を得たかったためです。
また、入院させるにしても、病識を持たない母をどのように移送したらよいか、という最大の障壁にぶち当たり、その解決手段を模索するためでもありました。
「往診や移送に協力してくれる病院はないか」と思ったのですが、計6ヵ所回ってどこも対応していない、ということでした。
どのように移送するのか、という方法についても、誰も教えてくれませんでした。
結局、「入院させるべき」という複数の医師の判断を聞いても、移送のハードルの高さ、手段が見つからないことがまた決心を鈍らせる、という堂々巡りの中で、時間だけが過ぎて行きました。
やがて、インターネットで情報を集めるうちに、移送を専門とする会社を見つけることができ、最大の障壁をクリアする目処がたちました。
まさにインターネットのなせる業であり、発症当初の1996年頃では見つけようがなかった解決方法だったと思います。
方法を見つける一方で、心理的葛藤を断ち切り、決断に至った最大の契機は、父が「入院させるべき」と強く助言してくれたことです。
父はわたしの精神状態を非常に心配していて、「統合失調症は伝染る。一緒にいるとお前もおかしくなる」ということを繰り返し言いました。
実際、母と同居していた姉が精神のバランスを崩し、死に追い込まれていったことを見ても、その助言には説得力がありました。
そして、さらに父は「お母さんのためにも入院させなくてはならない」ということも言いました。家族が我慢すればいい、ということではなく、きちんと治療のラインに載せて、母を病気から解放するべく、努力するべきだ、と。
本人が病気と戦う力を失っているのだから、家族がサポートするしかない、ということです。
強制移送という暴力的方法を用いて移送を実行し、精神病院に閉じ込めるということに対して罪悪感を拭いきれなかったわたしにとって、「母のためになる」という大義名分は、免罪符になりました。
このように、多くのハードルを越えて入院させることに成功しましたが、移送会社の方が「これからが大変でしょうが…」と仰ったとおり、これはゴールではなく始まりだったと思います。
逆にいうと、ただスタートラインに立つ、ということを実現するまでに12年もの月日を要したということでもありました。