【3】姉の同居と病状の悪化
その後しばらくして、わたしは東京で仕事をするようになり、実家には帰らないようになりました。
地元で職を得た姉が母と同居していて、まあ大丈夫だろ、と思っていました。
しかし、今思い返せば、母の病状は重くなっていたと思います。
だれかと会話しているかのような独語、一人で話して一人で笑う空笑が常にありました。
母は四人姉妹で、同じ地方にいる叔母に相談しても、「ひとりごとくらい誰でもあるで」とまともに取り合わない。
そもそも、四人姉妹の中で一人個性の違う母は、自分の姉妹にも父母に対しても強い敵意を示していて、発症前からほとんど孤立状態にありました。
姉の方も、発症してからずっと「母は正常である」という主張を続けていました。
母に初めて薬を投与したときも、一緒に精神科医に行ったのですが、先生の前でも「母は正常である」と強く主張するありさまで、
同居していても治療の必要性についてわたしと話することはありませんでした。
異常には気づいていながら、なぜそのような態度をとり続けたのか…。
現実認識が甘い…というよりも、現実を直視し、受容することができなかったのだと思います。
それは母の姉妹や両親にしても、同じであったと思います。自分たちの家族から精神病患者を出したということが恥であるという感覚が、年を取るほど強くあるように思います。
そして、何より、母自身が「自分は正常である」ということを強く主張していました。
家族よりも誰よりも、患者自身が自分が病気であるという認識=病識を持たない。受け入れることができないのです。
したがって、自ら病院に行く、ということはありえない。
周りの家族が認識をひとつにして、なんとか治療させるほかないのです。
しかし、わたしと姉の関係はずっとよくありませんでした。
過去に一線を越えるような激しい言葉の応酬が何度もあり、少なくとも姉に対するわたしの気持ちは冷えきっていました。
母の病気に対する見解の相違を解消するような話し合いはできなかった。その土台となるような信頼関係がありませんでした。
同居家族である姉の協力が得られないのに、母を治療のラインに乗せることはできません。
わたしも母の病気の問題が常に運命に暗い影を落としているようにずっと感じていました。
母と離婚したあとの父とも交流がありましたが、父のアドバイスは「見捨てたつもりで距離を取れ。でなけれれば、お前のほうがおかしくなってしまう」というものでした。
姉が同居していること、幻聴や独語、空笑は激しいものの被害妄想はなく、他人に危害を与える可能性は低いということを考え、結果的に何もしないまま月日が過ぎていきました。